松平信古(のぶひさ)(大河内松平家)

在位: 嘉永2年(1849)~明治2年(1869)

 越前鯖江藩主 間部詮勝の二男 間部詮信が養子に入り相続、信古に改名。

 信宝・信璋・信古三代の時期は藩財政が破局状態となり政治的にも多難を極め、加えて自然災害も続発して社会的混乱と政治の困難を倍増させた。嘉永6年(1853)ペリー率いる米艦隊が浦和に来航する。幕府の和親政策とは反対に攘夷論が盛んとなり、吉田藩では領内海岸の警備を厳重にし、外国船の襲来に備えて隣藩田原との境の百々村に防塁を築いて大砲を備えた。

 こんな中、信古は安政6年(1859)寺社奉行に任ぜられ、文久2年(1862)には大阪城代を命ぜられ動乱期の幕政の一翼を担った。元治元年(1864)には長州征伐の幕命が発せられたが、大阪城代の信古は直接参加することなく、専ら後方勤務に終始した。

 翌、元治2年(1865)江戸に召された信古は大阪城代職を解かれ溜間詰格の命を受けた。慶応3年(1867)徳川15代将軍慶喜は大政を朝廷に奉還した、信古は幕命により将軍保護の為大阪に上ったが、翌、慶応4年(1868)の 鳥羽伏見の戦い で幕軍が敗れ、将軍慶喜が江戸に逃げ去った後の市中は大混乱を極めていた。大阪に着いた信古は重臣を集め時局対策を協議したが、勤王とも佐幕とも藩論を統一できないまま、陸路伊賀・伊勢を経て吉田に帰った。

 吉田藩では挙藩一致で勤王・佐幕を表明する暇もなかったが、すでに勤王の立場を明らかにした尾張藩と接触した事により、東征軍の命を受けて各地に出兵し、東海道鎮撫使に属して兵糧の確保と輸送を分担した。(このころ、家名を「松平」から「大河内」に復姓)吉田藩士の中には江戸藩邸から脱走して上野彰義隊に加わり、会津若松の戦い、函館五稜郭の戦いにまで参加した者もあり、反対に勤王方に属した者もあった。

 信古は明治2年(1869)6月版籍奉還により吉田藩主から非世襲の吉田潘知事に変わった。また、同年8月新政府から藩名替を命ぜられて吉田潘改め豊橋藩となった。そして明治4年(1871)廃藩置県によって知事を免ぜられ子爵となって東京に移った。