松平信順(のぶより)(大河内松平家)

在位: 文化14年(1817)~天保13年(1842)

 信明の子松平信順が相続。

 漢学を太田錦城に学び中山美石を重用して国学を学び後、本居大平の弟子となる。文政8年(1825)寺社奉行次いで天保2年(1831)大阪城代となる。

 この時期の大阪は、全国的な大凶作で米価は暴騰し大塩平八郎の乱の前夜ともいうべき不穏な時期で、信順は米価対策に腐心していたが、天保5年(1834)には京都所司代に転任、京都でも米価高騰に悩まされており、信順は町奉行と図って救小屋を設け、粥・薬等を施与し米の不正取引を厳しく取り締まった。天保8年(1837)の大塩平八郎の乱に際しては京都市中の警備にあたった。その後信順は老中に任ぜられるが2か月で辞職してしまう。

 信順が藩主だった期間は藩財政の窮乏も進み、天保4年(1833)からは全国的な不作となり天保8年(1837)には大飢饉のため、二川・白須賀付近では毎日八~九人の餓死者が有ったと言われる。米価は高騰を続け天保7年(1836)には賀茂郡の大一揆が起こった。新田開発等信順は手を尽くしたが成果はあがらなかった。

 老中を辞職した信順は天保13年(1842)隠居して家督を子の信宝に譲る。