水野忠善(ただよし)(忠守流水野家)

在位: 寛永19年(1642)~正保2年(1645)

 駿河田中(現静岡県藤枝市)から水野忠善が入封

 水野忠清と同族で武将として武術に励み、常に軍備を怠らず、徳川幕府の信頼も厚く、尾張藩の後ろ押さえとして期待され、吉田城在城3年で岡崎5万石へ配された。

 この時期は全国的に飢饉の年で勅使、朝鮮通信使、徳川義直の尾張就封など交通も頻繁だったので、東海道各宿場の負担は増大し疲弊に陥った時幕府と協力して乗り切ったと言われる。又、吉田宿の東総門が手狭となったので人家を移して整備し番所を置いたとの記録が有る。

 三河岡崎へ転封。